石神井川中流の流路跡を歩く その1-2
続きです。
今回は12から。
環八を過ぎたあたりに、「ぬくいの森緑地」があります。崖に沿ってさまざまな木が植えられています。左手は神戸屋の工場です。
氾濫流路は徐々に北東に方向を変え、目白通りにさしかかります。(13)
その先には畑が広がっています。かつては水田だったようです。相変わらず右側は崖になっています。
14地点。ここから先は1970年住宅地図には描かれていません。左側の道も水路跡ですが、右に進みます。
15地点。ここで道は行き止まりになっています。「こもれび」によれば、氾濫流路は右の個人宅の敷地内を通っていたようです。
16地点。ここで左手からくる別の水路と合流します。一度そちらの方に行ってみることにします。
地図上の17。西日がきついです。いかにも川の跡、という感じがする道です。
ワープしました。地図上の18、道楽橋で氾濫流路は石神井川に再び合流します。
この周辺にもさまざまな暗渠が存在するので、追々紹介します。
石神井川中流の流路跡を歩く その1-1
石神井川中流のごく一部(平成みあい橋〜東中央橋)に絞って、1970年時点の流路をマップに描きました。
紺色 = 現在も流れている石神井川
水色 = 1970年発行の住宅地図に開渠として描かれている部分
深緑 = 1963年の航空写真では開渠になっているのに住宅地図に描かれていない部分
となっています。
今回歩いたのは谷原三之橋付近から大野橋に流れていた部分と、大野橋から道楽橋にかけて流れていた氾濫流路です。
谷原三之橋から少し下流に進んだ部分に石神井川と繋がる水路跡があり、その奥に水路敷が走っています(図中1)。
この付近の石神井川は古くは3本川となっており、周辺には水田が広がっていました。そのため、水田に水を供給していたと思われる水路がこの付近には数多く存在します。
図中2の地点。アパート1軒分だけ古めの側溝蓋が残っています。
3地点。石神井川のすぐそばを通過します。右手は崖になっています。
大野橋。水路敷はここで一旦途切れます。ここまでの水路敷は、石神井川が蛇行していた頃の本流の跡のようです。
ここからは、石神井川の南側を迂回する流路跡を進みます。
練馬区のまちづくり情報誌「こもれび」第43号では、この水路敷が石神井川の氾濫流路として紹介されています。
この流路の上流は1970年住宅地図には描かれていませんが、1963年航空写真には写っています。7年の間に暗渠化された可能性があります。
大野橋のすぐそば(5)から不自然な細道が分かれていきます。
練馬区名物の水路敷ペイントもあります。(6)
水路敷は四商通りとぶつかり、右折して少し平行した後、左折します。(7,8)
練馬区章が入った「雨水浸透」の小型マンホールがありました。
9地点。上り階段になっています。この辺りの流路は区画の変遷とともに多少か変更されているらしく、あまり当時の面影が残っていません。
10地点。ここから先は1970年住宅地図で開渠部分になっており、現在は「貫井四丁目緑道」として整備されています。
11地点。環状八号線の下をくぐり抜けます。
続きは次回。
神奈川県横浜市のマンホール 上水道篇
横浜に行ってきました。横浜市には非常にマンホールが多く存在し、その数は上水道で13万、下水道で53万だそうです(出典:変わったデザインもある!?市内のマンホールのフタに迫る! - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト)。まるで戦闘力ですね。
横浜市のマンホールをひたすら撮っていたら120種類を超えてしまったので、今回は上水道の蓋に絞って掲載します。
横浜市営地下鉄の一日乗車券で各地を巡ります。独自の蓋が多い旭区や、やや古めの蓋が残っているらしい本牧には地下鉄が通っていないので行けませんでした。残念!
まずはデザインものから。これはみなとみらいに保存されている帆船「日本丸」のデザインのマンホールです。地下鉄桜木町駅前のものですが、異常なほどにサビサビです。
上で紹介した記事によると、このタイプの蓋は古い基準で作られているため、次回更新時に撤去されてしまう予定だそうです。悲しい...
これは馬車道のデザインです。
上の記事によれば、これも次の更新でなくなってしまうようです。泣いちゃう...
横浜市の仕切弁には「仕切り弁」と「り」を入れた表記のものが多く存在します。中央のマークは、「水」の文字と横浜市章を組み合わせたデザインです。なかなかイカしてますね。
「り」が遠慮がちになりました。字も上のものよりも細くて多少スマートな印象です。字だけでなく、中央のマークも細くなっているのが面白いです。これも作り手の個性なんでしょうか?
ついに「り」が消えました。こんな感じで、はね・はらいをガン無視する字が大好きです(「市」はハネてるけど)。漢検でやったら×つけられると思います。
横浜のマンホールといえば、なんといってもこの受枠の格好良さ。なんとなく近未来を感じます。噴水マークもかわいいですね。
「バラフライ弁」と「ソフトシール弁」です。これも仕切弁の一種らしいですが、何者なのかよくわかりません。
戸塚区で見つけた消火栓蓋です。Y.W.W.(横浜市水道局(Yokohama Waterworks Bureau)を示す)の文字が入っています。
中区中心部で見かけることが多かったのはこっちの蓋。
量水器です。右のものは文字が中心に入っているのに対し、左のものは文字が少し右に寄っている気がします。
今回の探索の範囲内では右書きの蓋を発見できなかったのが非常に心残り。
まだまだたくさんありますが、ファイル利用量のことも考えてこの辺にしておきます。気が向いたら追加するかも。
東京都府中市のマンホール・ちょっとだけ国鉄下河原線
学校帰りに府中本町駅~府中駅~北府中駅を歩いてきました。日没まで2時間のタイムアタックでした。
府中市のデザイン蓋。市の花ウメが描かれています。地の色が青なのもいいですね
市内に比較的潤沢にあったのがこの蓋。これは市の鳥ひばりを描いたものです。「ふちゅうし」に対して「ごうりゅう」が窮屈になっている感じがキュートです。
これは市の木ケヤキをデザインしたもの。ケヤキを市の木にする自治体も凄く多いですね。茶色に塗装されている(?)ので芸術点高めです。
この地紋ははじめて見ました。比較的新しい蓋だと思われるので、今後他の自治体でも出会えるかもしれません。
大きめサイズの建設省蓋もありました。個人的に建設省の蓋は大好きです。なんでかよくわからないけど
細い道でこんな蓋を発見。府中市の紋章ではないので、もしかしたら貴重な蓋か?と思いましたがただの調布市章でした。府中町時代の蓋とかも残っていてほしいものです
建設省蓋の近くに国鉄の境界標がありました。たしかにここの地下には武蔵野線が走っていますが、もしかしたらこの横を通っていた国鉄下河原線のものだったりして?
下河原線は、1910年に多摩川の砂利運搬を目的とした「東京砂利鉄道」として国分寺~下河原間に開業しました。
もともとは貨物営業しか行っていませんでしたが、1933年に東京競馬場が開業すると、東京競馬場前駅(今の府中本町駅の近く)が開業され、旅客営業も行われるようになりました。
しかし武蔵野線が下河原線に沿って建設されることが決まり、下河原線は1973年の武蔵野線開業とともに廃止となります。現在では、さっきの境界標の近くが「下河原線広場公園」として整備されるなどしています。
、みたいなことが書いてありました。
ちょっとだけ線路が残っている箇所もあります。
レールを車止めに使っています。
記事の終わらせ方がよくわからない...
おしまい!
埼玉県飯能市のマンホールとか
大学が休みでやることも特になかったので、西武線で飯能まで行ってきました。
電車1本で行けるところなのに、これまでちゃんとマンホールを見たことはありませんでした。
駅前にあった蓋。飯能河原あたりかな?と思ったら、越境蓋でした。これは東京都秋川市(現:あきる野市)のデザインマンホールです。
あきる野市に設置されているマンホールでは、左下の部分に「あきがわし」と刻まれていたようですが、このマンホールでは空白になっています。もしかしたら飯能市に設置するにあたって削られたのかも。
秋川市のマンホールは、飯能駅周辺に5枚ほどありました。駅を出て最初のマンホールが越境蓋とは...
飯能市のデザインマンホールはこっちです。中央には山や川、市の鳥であるウグイスが描かれ、周りには市の花であるツツジが描かれています。ツツジを市区町村の花にしている自治体、一体いくつあるんでしょうか...
飯能市のJIS蓋です。編集するときにうっかりしていて、上下逆にしちゃいました。この他にも市章の中央に穴が空いているタイプや「汚水」「雨水」の表記があるものなど、飯能のJIS蓋にもそこそこバリエーションがありました。
マンホールの上に水たまりができていたので、蓋リフレクション、撮ってみました。傘の影ができてきれいに写らなくなってしまうので、マンホールを撮影するときに雨が降るのは正直嫌です。雨の日にマンホールを撮影する秘訣を持っている方、ぜひ教えてください。
阻水弇を見つけました。上の紋章がすり減って判読できないのが残念です。
今回のメインはこれ。飯能市の下水道章標です(たぶん)。
アップにしてみました。これがメイン、って言った割には画質が悪い。
飯能市の下水道章標は、周りが下水君になっています。左右の「飯能」の手書き感がいいですね。下の「1691」は何なのか気になります。
おまけ
「埼」が異体字になっているタイプの境界標です。
一瞬「人間77号」に見えました。だから何なんだ、って話ですね。
身に沁みます。
矢口水道の蓋を探しに行った話
ダラダラしてたので久々の投稿です。
マンホーラーの祭典「マンホールナイト」の翌日、11月4日に「矢口水道調査会」なるものに行ってきました。
矢口水道株式会社は、昭和初期に6年間だけ存在した、東京府の矢口町に給水を行っていた会社です。1984年出版の「マンホールのふた 日本編」には2枚の蓋が掲載されていますが、それらは現在では撤去されており、他の蓋の存在は全く確認されていません。矢口水道調査会は、自らの担当地域をくまなく探し回って矢口水道の蓋を発見してしまおう、というイベントでした。
武蔵新田駅周辺の探索を任せられたので、集合場所の蒲田から東急多摩川線で向かいます。
武蔵新田駅。写真ヘタすぎ。
ここから矢口水道の蓋を探します。
右書きの止水栓がありました。
空き地にネコ。
路上散策ガチ勢に昼食の時間はありません。
マツキヨで半額で買ったハンバーガーを貪ります。
レアもの発見!東京都章が入った甲止栓です。
アパートの1階部分にありました。我ながらよく見つけたなぁ
身にしみます
「分別しろ!」現場の人の怒りが伝わってきます。
探索が終わると、報告会が行われました。
「マンホールのふた 日本編」の著者、林丈二先生が、矢口水道の蓋を発見した時の様子を話してくださいました。1980年代の時点で2枚しか見つからなかった蓋、今回見つからないのもしょうがない...
その後、調査会中のメンバーのツイートを振り返り、矢口水道調査会は終了となりました。
矢口水道の蓋は見つかりませんでしたが、それでも様々な発見があり、とても楽しい一日でした。