山形県酒田市の越境蓋?
この間の週末パス旅行で立ち寄った山形県酒田市で発見したマンホール蓋の話です。
まずは酒田市章が入った量水器の蓋です。このタイプの市章は、2005年に周辺の市町村が合併して「新・酒田市」ができるまで用いられてきた旧デザインです。
2005年に制定された新しい市章が入った蓋もあります。
本題はここから。
今回、酒田駅の南西側、酒田港駅方面を歩いたのですが、そこで結構な数の越境蓋を見つけました。
①仙台市?
酒田市北新町付近で10枚弱見つけました。おそらく仙台市の市章だと思うのですが、微妙に形が違うような気もします。本州を横断して酒田まで来るとは大したものです。
↑宮城県仙台市の蓋。言葉にしづらいですが、市章部分が微妙に違う感じがします。
②塩釜市??
仙台市と同じタイプの量水器の蓋ですが、紋章が違います。これも数枚見つけました。宮城県塩釜市の市章が近いような気がしますが、違うような気もします。
↑宮城県塩釜市の蓋。市章部分を見ると、外側のU字部分が違うような気もしますが、どうなんでしょうか...
③鶴岡市?
酒田市今北町、国道112号線近くにあった右書き止水栓です。「水」の字をパターン化したっぽい紋章が特徴的です。この付近には少し違うパターンの蓋も数枚ありました。
この紋章は鶴岡市のもので、水道関係の蓋や、古い下水道の蓋に使われているようです。
これは近場なのでなんとなく理解できます。
↑山形県鶴岡市の制水弁と止水栓。右の蓋のようにマークが上下逆になっているものも存在します。昔の鶴岡市章と「水」の文字をデザインしたものだそうです。
2時間ほどの散策でしたが、3種類の越境蓋らしき蓋を見つけることができました。これらの越境蓋に特徴的なのは、3種類とも水道関係の蓋だということです。
酒田市(当時は酒田町)の水道敷設は1930年。昭和不況などの景気低迷のあおりを受け、水道の普及は終戦のあたりまで思うように進まなかったようです。
酒田市の水道は、終戦後、人口の増加に伴い、6度の拡張工事が行われます。今回発見した越境蓋はこのあたりで設置されたものなのではないでしょうか?(参考:酒田市 平成25年度水道事業年報
http://www.water.sakata.yamagata.jp/nenpou_12_h25.pdf
)
石神井川中流の流路跡を歩く その2-2 (高松・春日町方面)
続きです。
今回は地図の中央付近、川跡が分岐するところから。
川跡を道なりに進んでいくと、練馬区立春日小学校の裏門に到着し、これ以上先に進めなくなります(地図上の7)。川跡は、春日小学校の中を抜けていっていたようです。
現在の春日小学校と1947年当時のほぼ同じ位置を撮影した航空写真です(どちらもねりまっぷより作成)。水田の周りを水路が走っていることがわかります。おそらく、今の校舎の北側あたりを川が走っていたと考えられます。
ほぼ同じ場所を色別標高図にしてみました(地理院地図(自分で作る色別標高図)を利用)。崖沿いに校舎があることがわかります。南側の大きい建物が校舎、北側の小さい建物が体育館のようです。体育館は建設の際に多少崖を削っているものと思われます。
3つの要素を無理やり合わせてみました。非常に見にくいです。崖沿いに川が流れていたところに校舎を建てているということが辛うじてわかります(これも地理院地図より作成)。
春日小には、北校庭と南校庭という2つの校庭があるそうです。北校庭は崖の上、南校庭は崖の下にあるようで、校舎は北校庭から見ると2階建て、南校庭からみると3階建てになっているそうです(春日小学校HPより)。
南校庭と正門の間には「春日の流れ」という小川があり、子供達の学習に使われているそうですが、今回訪れている川と関係があるかどうかはよく分かりません。
春日小の建設用地は1978年に取得されたものですが、その翌年の発掘調査によって、尾崎遺跡が発見されます。
春日小学校の建設にあたり、昭和54年~55年に発掘調査が行われ、旧石器(約3万年前ごろ)から江戸時代までの遺跡が発見されました。この遺跡からは、底がとがった縄文時代の土器や、「仲」と書かれた平安時代の土器など、練馬の昔を知るための貴重な資料が得られています。中には火おこしをするのに使った「平安時代の火きり臼」など大変珍しいものもあります。「尾崎遺跡おさきいせき」は、遺跡の多くが埋め戻し保存され、昭和58年に東京都の史跡に指定されています。これらの資料は、学校内にある「春日小学校尾崎遺跡おさきいせき資料展示室」で見学できます。
(文章と画像:尾崎遺跡 (おさきいせき):練馬区公式ホームページより引用)
尾崎遺跡は、練馬区に旧石器時代から人が住んでいた証拠の1つとして大きな役割を果たしているようです。
先に進みます。
地図上8の地点。ここから川は道路上に戻ります。最初から一貫して道幅が広く、練馬区にありがちな水路敷はまだ登場しません。
9地点。終盤にさしかかって道幅が狭くなり、暗渠っぽさが今更になってでてきます。下水道台帳を見ると、残念ながらこの川跡を流れる下水道は途中何箇所かで分断されてしまっています。こういったみちも「暗渠」と呼んでしまってもいいのでしょうか?
豊島園グラウンドの前の道に出ます。現在では豊島園の敷地に遮られてここから先を辿ることはできません。
1936年の航空写真です。目を凝らして見てみると、なんとなく石神井川に注ぐ流路が分かるような... それっぽいルートを紫で描写してみましたが、全然違うような気もします(これも地理院地図より作成)。
6地点で分岐した水路が石神井川と再び合流する石川橋に来ました。
石川橋の少し手前の地点です。奥の波マークのペイントの奥は豊島園の敷地です。
石神井川も、この先は豊島園の敷地内を通っていきます。
石神井川中流の流路跡を歩く その2-1 (高松・春日町方面)
1970年住宅地図をもとに、練馬区中南部の川跡を巡っています。
これまでの記事はこちら ↓
今回は、石神井川の小橋から分岐して春日小学校の方に向かう支流(ここでは「春日小支流」とします)に向かいます。
地図上の赤い点をクリックすると番号が見られると思います。
練馬中央陸橋のすぐそばにある小橋(こはし)です(地図上の1)。奥に見えるのは環状八号線です。
昭和22年(1947年)当時の小橋周辺の航空写真です。(ねりまっぷにより作成) 小橋(左下)から北東方向に支流がのびているのがわかります。今回歩く支流の他にも多数の水路があったようです。
昭和38年(1963年当時)の航空写真です。中央付近の、練馬主要区道81号線を超えたあたりから開渠になっているのがわかります。この頃になると周辺に住居も増えてきます。
2地点。右方向に向かうのが川跡です。この辺はまっすぐなのであまり川跡という感じがありません。
3地点。ようやく右カーブです。「お」の文字がイカしてます。
4地点。崖を登ると高松八幡神社があります。
高松八幡神社は、1064年に源頼義によって建立されたといわれており、石段脇の石造大山不動明王像が練馬区登録有形文化財に指定されています。(左に見切れてるやつです)
高松八幡神社周辺の標高を図に表してみました(地理院地図(自分で作る色別標高図)を利用)。石神井川流域の北側の縁部分に高松八幡神社が建てられていることがわかります。典型的な神社の立地です。
上に登ってみました。やはり高低差が大きいです。
5地点。道路の幅員が狭くなっています。川跡は右斜め前の道です。
ちなみに、この付近の石神井川の対岸は、貫井川と石神井川が合流する地点になっています。
6地点。ここで川跡は前方と左方に分岐します。今回は左に向かいます。
左に曲がった地点。ここまでよりも多少道幅が狭くなり、曲線の半径も小さくなっている印象です。
今回はここまで。次回はこの先にある春日小学校付近について掘り下げようと思います。
神奈川県横浜市のマンホール 区篇①
横浜で撮ってきたマンホールをちょっとづつ放出していきます。
第一弾はこれ ↓
今回は、横浜市営地下鉄で回った中で見つけた、横浜市の中の区に関するマンホールです。
横浜市営地下鉄には、ブルーラインとグリーンラインの2線があります。ブルーラインは、横浜市泉区、戸塚区、港南区、南区、中区、西区、神奈川区、港北区、都筑区、青葉区を通っている他、湘南台駅は藤沢市にあります。グリーンラインは、緑区、都筑区、港北区を通ります。
今回は、戸塚区、中区、都筑区の蓋の他、三ツ沢上町〜片倉町の間ですぐそばを通る保土ヶ谷区の蓋を撮ってきました。
港南中央駅の周辺に港南区の蓋もあったようですが今回は行くのを忘れていました。無念
まずは中区の蓋です。
赤レンガ倉庫から桜木町方面に向かう歩道上にありました。
2017年に中区が区制90周年を迎えたことを祝う蓋で、上に描かれているキャラクターは中区のマスコットキャラクター、「スウィンギー」です。2007年、中区が区制80周年を迎えた際に選定されたキャラクターだそうです(中区役所 スウィンギーの部屋より)。
2017年設置のマンホール蓋で、人通りの多い歩道に設置されているということで、かなりよい状態でした。
続いて戸塚区。このマンホールは、戸塚駅周辺にふんだんにありました。屋根の下にあるものもあるので雨でも安心して撮影できます。
絵柄は東海道の戸塚宿です。戸塚宿を箱根駅伝のランナーが激走しています。戸塚宿の風景が江戸時代以前のものに見えるのに対し、ランナーは完全に現代の格好、というのが面白いです。
これは、戸塚駅から東海道沿いに数百m南下した地点にあったマンホールです。絵柄は上のものとほとんど変わりませんが、プレート式になっていて、提灯の「東海道」が「戸塚」になっています。
このマンホールのマンホールカードが第30回下水道職員健康駅伝大会やマンホールサミット2016で配布されたようです。
写真の蓋の横にもう一枚同じデザインの蓋があったのですが、どちらかが座標蓋だと思われます。
保土ヶ谷区の蓋です。横浜市で一般的な地紋の蓋(横浜のYとOをデザインしているらしい)の上にプレートが取り付けられています。保土ヶ谷区のマークの他に、区の花すみれと「カルガモ・カールズ」が描かれています。
保土ヶ谷区の区の鳥はカルガモです。「カルガモ・カールズ」は、1990年に、左の「区の花・すみれ」とともに制定された保土ヶ谷区のマスコットマークです。カルガモには名前をつけるのに、すみれにはつけない感じが不可解。
最後は都筑区。この蓋はセンター南駅から都筑区総合庁舎に向かう道に数枚ありました。かなり劣化が進んでいて、中央の「Welcome to Tsuzuki」も相当判別しづらくなっています。
本来は中央上部に、都筑区総合庁舎の方向を示す矢印が入っているのですが、汚れでほとんど見えません。誰か拭いてあげてください。
横浜市には、このほかにも緑区や旭区、瀬谷区などに独自のマンホール蓋が設置されているようです。特に旭区は種類が多いので行ってみたいですが、他に見るものがなさそう...
貫井川の支流を歩く その1(向山)
先日貫井川本流を紹介したのですが、貫井川は目白通りの北、円光院付近で二又に分かれます。今回はその支流側を、石神井川との合流地点から遡ります。
↑ 貫井川本流はこちら。
今回はこの地図の青色の部分です。赤色のポイントをクリックすると、本文中で使っている番号がでてくると思います。
スタートは石神井川・石川橋付近(地図上の1番)。この付近は長らく水田だった地域なので、水路跡が著しく多いです。この貫井川の分流にも、時代によってはさらに支流が存在します。
地図上2の地点。まっすぐ先に行くのは向山ヶ戸の支流です。こちらは目白通りから流れてきており、ここで貫井川分流と合流します。
右側に曲がっていきます。趣のある家ですね。それにしても西日がきつい。
地図上3、かわいいパンダと鳥(奥のはカメ?)です。こういうタイプの整備がなされている暗渠は練馬区では珍しい方かもしれません。白線が2本引かれているのも気になります。
左奥に見切れているのは、東京電力豊島園線の送電鉄塔(No.10)です。西から石神井川沿いに来た豊島園線はここで南に90度進路を変え、すぐ先の向山公園付近で地中に潜ります。
これは酷い。探索は午前中から始めようと心に誓いました。暗渠はここで広めの車道にぶつかります。まっすぐ先には稲荷神社があり、暗渠はそれを避けるようにして二手に分かれています。つまりここが2ルートの合流地点です(おそらく前の道路より数メートル先で合流していたものと思われます)。
前方の細い道と左の車道がありますが、開渠当時のルートが残っているのは前方の細道なのでそちらに向かいます。
いかにも暗渠跡、って感じのジメジメ感。
左側の高台は稲荷神社と駐車場として使われています。右側も割と高低差があるようです。
地図上5付近。二手に分かれたルートは再び合流し、広めの車道になります。下流から遡っているのでずっとゆるい上り勾配です。
地図上6。広い通りと交差します。地図ではそのまま前方に進めそうに見えますが、実は前方が崖になっていました。おそらく暗渠化の際に手前側の道路がかさ上げされたのだと思われます。
反対側に回ってみました。川跡の部分だけ崖が途切れていて、なんとなくそこに川があった雰囲気を醸し出しています。
近づいてみました(7)。かつてはここに「貫東橋」という橋がかかっていたようです。
8地点。現在ではこの先は行き止まりになっていますが、1970年住宅地図ではこの先までが開渠として描かれています。おそらくこの先のどこかで右に曲がり、すぐ右側を流れている貫井川から分かれていたのだと思います。実際、1963年航空写真にはこの先で貫井側分流が本流と分かれている地点を確認することができます。前方すぐ先には目白通りが東西に走っています。
おまけ
最初に紹介した石川橋の近くの家で、長方形のマンホールの蓋が足場として使われているのを発見しました。このタイプの蓋を個人が持っている、というのが驚きです。
石神井川中流の流路跡を歩く その1-2
続きです。
今回は12から。
環八を過ぎたあたりに、「ぬくいの森緑地」があります。崖に沿ってさまざまな木が植えられています。左手は神戸屋の工場です。
氾濫流路は徐々に北東に方向を変え、目白通りにさしかかります。(13)
その先には畑が広がっています。かつては水田だったようです。相変わらず右側は崖になっています。
14地点。ここから先は1970年住宅地図には描かれていません。左側の道も水路跡ですが、右に進みます。
15地点。ここで道は行き止まりになっています。「こもれび」によれば、氾濫流路は右の個人宅の敷地内を通っていたようです。
16地点。ここで左手からくる別の水路と合流します。一度そちらの方に行ってみることにします。
地図上の17。西日がきついです。いかにも川の跡、という感じがする道です。
ワープしました。地図上の18、道楽橋で氾濫流路は石神井川に再び合流します。
この周辺にもさまざまな暗渠が存在するので、追々紹介します。
石神井川中流の流路跡を歩く その1-1
石神井川中流のごく一部(平成みあい橋〜東中央橋)に絞って、1970年時点の流路をマップに描きました。
紺色 = 現在も流れている石神井川
水色 = 1970年発行の住宅地図に開渠として描かれている部分
深緑 = 1963年の航空写真では開渠になっているのに住宅地図に描かれていない部分
となっています。
今回歩いたのは谷原三之橋付近から大野橋に流れていた部分と、大野橋から道楽橋にかけて流れていた氾濫流路です。
谷原三之橋から少し下流に進んだ部分に石神井川と繋がる水路跡があり、その奥に水路敷が走っています(図中1)。
この付近の石神井川は古くは3本川となっており、周辺には水田が広がっていました。そのため、水田に水を供給していたと思われる水路がこの付近には数多く存在します。
図中2の地点。アパート1軒分だけ古めの側溝蓋が残っています。
3地点。石神井川のすぐそばを通過します。右手は崖になっています。
大野橋。水路敷はここで一旦途切れます。ここまでの水路敷は、石神井川が蛇行していた頃の本流の跡のようです。
ここからは、石神井川の南側を迂回する流路跡を進みます。
練馬区のまちづくり情報誌「こもれび」第43号では、この水路敷が石神井川の氾濫流路として紹介されています。
この流路の上流は1970年住宅地図には描かれていませんが、1963年航空写真には写っています。7年の間に暗渠化された可能性があります。
大野橋のすぐそば(5)から不自然な細道が分かれていきます。
練馬区名物の水路敷ペイントもあります。(6)
水路敷は四商通りとぶつかり、右折して少し平行した後、左折します。(7,8)
練馬区章が入った「雨水浸透」の小型マンホールがありました。
9地点。上り階段になっています。この辺りの流路は区画の変遷とともに多少か変更されているらしく、あまり当時の面影が残っていません。
10地点。ここから先は1970年住宅地図で開渠部分になっており、現在は「貫井四丁目緑道」として整備されています。
11地点。環状八号線の下をくぐり抜けます。
続きは次回。