マンホール蓋で振り返る2019上半期 2月編
続きです。
1月の序盤から春休みに突入する大学に通っているので、2月はウハウハです(?)
1〜3月はバイトして金を貯めつつ、月の半分近くをマンホール収集に費やす、という生活をしていました。今考えれば夢のようです。今年の春休みは宿泊を伴う旅行も3回しました。いいでしょ!
①マンホールフェスに行った @東急ハンズ新宿店(2/1)
東急ハンズ新宿店でマンホールフェスが開催。「これは行くしかない!」といきっていたのですが、意外とバイトが詰まっており、13時からバイトの日に行くはめに。
きた!#マンホールフェス#東急ハンズ新宿店 pic.twitter.com/H9BOL2DlsV
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月1日
版画の要領でTシャツにマンホールの柄を転写したり、マニアパレルのTシャツを購入したりしました。これで「#マニアパ被害者の会」の仲間入りだ!他にもドラ焼きやコースター、クッション、キーホルダーなど、マンホールグッズもどんどん増えてます。これはマンホールブーム来てますね!
②東京都檜原村に行った(2/3)
払沢の滝に行ってみたかったので、武蔵五日市駅から歩いて檜原村まで行ってみました。
武蔵五日市駅はあきる野市です。あきる野市のマンホールには秋川渓谷とアユがデザインされています。
コンクリート蓋
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月5日
中央に魚と山の絵柄がデザインされている#manhotalk pic.twitter.com/yl9e6fc2uz
サイズが小さくなると魚の数が少なくなるのがなんかいいですね。
最後のコンクリート製の蓋は、中央にデザインマンホールの絵柄が入っています。こういうパターンもあるんですね。
武蔵五日市駅から1時間30分(6.6km)ほど歩くとようやく檜原村に到着します。武蔵五日市駅から檜原村まではバスが出ているので、よい子はバスを使いましょう。異常に疲れました。
あきる野市 十里木 pic.twitter.com/FSgbvsJ1iU
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月3日
道中のいい景色。
檜原村のマンホールはこんな感じ。ウグイス・ヤマブキ・ヒノキ・払沢の滝がデザインされています。中央の村章はひらがなの「ひ」を図案化したものです。
檜原村 払沢の滝 pic.twitter.com/PuObaXSxsp
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月3日
払沢の滝はこんな感じ。2月なのでちょっと凍結していました。こんな大自然が東京都にあるというのも感動です。
何かのお祭りが行われていたらしく、村のイメージキャラクター「ひのじゃがくん」が遊びに来ていました。微妙なアングルの写真しかない。
③富山旅行(2/8~9)
春休みの旅行パート1です。
まずは初日。夜行バスで行ったので早朝から動けます。
まずは氷見線で雨晴駅へ。線路の横がすぐ海になっていて壮観です。雨だったにもかかわらず、撮り鉄も何人か来ていました。
右に見えるのが道の駅雨晴。この奥には高岡市のマンホールカードに使用されている座標蓋があります。
雨晴海岸・女岩・義経岩・立山連峰がデザインされています。なんとなく切り絵の情緒を感じさせるかっこいいデザイン。
近くの松太枝浜浄化センターには夕焼けバージョンも。夕日に染まる立山連峰がダイナミック。
お昼ごろには氷見市に行きました。氷見市には、ずっと前からみたいと思っていたあの蓋が。
ブリのマンホール。背景には越中式定置網です。越中式定置網はここ氷見市が発祥の、網に入った魚の3割程度のみを捕獲するという漁法。江戸時代から行われていますが、「持続可能な漁業」の一環として世界からも注目されているそう。
お昼には本場の刺身定食とぶり大根。なんかスマホのレンズが曇っていていまいちよく撮れていませんが、めちゃめちゃ美味しかった
夕方に富山市へ。あまり時間もないのでそこまで色々見ることはできず。
富山城。完全に雪です。
カラーマンホールも発見。
右書きの蓋も1枚だけ発見。絶対もっとあるはず!
相倉集落。がっつり雪景色。防水の靴を履いていないと歩くのが辛い。
菅沼集落。おそらくこれが合掌造りのベストショット。
富山県旧平村(現:南砺市)のマンホール。桐とツツジがデザインされています。
白川郷。春節とかぶったので、中国人観光客と思われる人たちでごった返していました。正直、相倉・菅沼集落の方が落ち着いた雰囲気を味わえると思います。
相倉・菅沼集落と異なり、白川郷のある白川村は岐阜県です。マンホールも合掌造りのデザイン。
城端駅には、「フラワーライン」と書かれた看板がありました。「フラワーライン」は、1980年ごろに使われていたキャッチコピーです。40年弱ものの看板がいまだに設置されているようです。文字も味があって素敵!
④相模線(2/16)
乗り通したことはあるものの、途中で降りたことのなかった相模線に乗って神奈川県を回りました。
寒川町。寒川神社があることで有名です。スイセンがデザインされたマンホール。線の描き方が独特です。文字も縁取りされたような感じになっています。
その後も厚木・海老名などに訪問しましたが、印象的だったのは座間市。
座間市章が、左の正しいやつに対して違和感のある蓋。
アップにしたらこんな感じ。中央が「マ」に見えないし、「ザ」の濁点もほぼ見えません。こういうのもあるんですね。
⑤足利(2/23)
少し足を伸ばして栃木・足利市まで行ってきました。
足利学校。下に見えるのがおなじみのデザインマンホールです。
足利学校のマンホール
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月24日
周りの柄は「字降松」(学生が読めない字をこの松にかけておくと、ふりがなや注釈がつけられていたという伝説が残る) pic.twitter.com/e7HT5Kuc9E
足利学校は、すぐ近所で配っているマンホールカードを見せると入場料が割引になる、というサービスを行なっていました。今もやっているかはわかりませんが、足利に行った際はマンホールカードもGETしてみては?
中はこんな感じ。
足利学校が描かれたマンホール#manhotalk #素通り禁止足利 pic.twitter.com/UxFz46erYw
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月23日
近所にはこんなマンホールも。
写真だと全く読めませんが、一応「水止栓」表記だった蓋 pic.twitter.com/kdTcYJ4VEZ
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月24日
ちょいちょい骨董蓋も見つかります。
劇場通り。映画「今夜、ロマンス劇場で」のロケ地らしいですが、残念ながら見ていません。
佐野市 さのまるのマンホール
— OKRA_2 (@iamokura_2) 2019年2月23日
下水道・消火栓・水道仕切弁#manhotalk pic.twitter.com/YFzon4gL3r
帰りに佐野市にも寄りました。さのまるかわいい〜
2月はこんな感じです。2/28から関西旅行に行っていますが、それは次の記事で。書く体力がどんどん無くなってきました。
2月に撮ったマンホール:479枚 (累計980枚)
マンホール蓋で振り返る2019上半期 1月編
面倒くさがりという性格は良くないものです。4ヶ月ぶり、今年3回目の投稿。
やはりTwitterがあると手軽で、なかなか長い文章を書こう、という気になれません。
授業のレポートもなかなか書き出せず、最近ではクオリティの低下が甚だしいです。
早いものでもうすぐ2019年も半分終わり、ということで、ぼちぼち2019年を振り返っていこうと思います。
- ①初詣 @成田山新勝寺(1/2)
- ②多摩市に行った(1/11)
- ③都心の骨董蓋を色々見に行った(1/12)
- ④しつこく都心の骨董蓋を見に行く(1/13)
- ⑤成人式 @としまえん(1/14)
- ⑥館林〜太田〜大泉〜邑楽〜加須(1/18)
- ⑦浦安〜市川〜船橋(1/31)
①初詣 @成田山新勝寺(1/2)
去年は川崎大師に行ったのですが、今年は成田山へ。朝早めに行ったこともあり、去年より並ばずに済みました。
成田駅近くにあるデザインマンホールは2種類。ウメとアジサイがデザインされたもの(左)と新庁舎落成を記念して作成されたもの(右)です。左のタイプのカラー蓋もあるようですが、残念ながら出会えず。
凶。ありえない!
全ジャンルまんべんなく悪いことが書いてあります。凶でこのレベルって、大凶だったら何書かれるんでしょうか。「確実に死ぬ」とか書いてあるんですかね?
②多摩市に行った(1/11)
テストが終わって学業から解放され、軽くなった足で聖蹟桜ヶ丘へ。そこから多摩センターまで歩いて行きました。
ラスカル・キティとも初めて対面。やっぱかわいいっすね。マンホールカードもきっちり3種類コンプリートしました。
多摩ニュータウンの蓋もあちこちにありました。
多摩市で気になったのがこの蓋。
東京市型(JIS型)に見えますが、内側6分割、外側12分割で微妙に異なる所謂「異体JIS型」です。
異体JIS型について去年書いた記事↓
あれから何種類か新しい異体JIS型を見つけたので、近々加筆したいところです(有言不実行になるやつ) 。
周辺には、6-12タイプの「雨」と書かれた汎用蓋も何枚もありました。異体JIS蓋の多い地域なんでしょうか?
③都心の骨董蓋を色々見に行った(1/12)
練馬区在住で大学も郊外にあるため、都心になかなか用事がない、というのが悩みのため、いっそ1日都心のマンホール蓋に費やしてしまおう、となった日です。
路上文化遺産データベースを参考に新宿〜渋谷にあるとされている骨董蓋(古い蓋:たいてい終戦以前のもの)を見に行きました。1つ1つ説明するのも面倒なので、以下写真を列挙します。このブログを読んでいただいているような方はすでにご存知の蓋が多いのではないでしょうか...?
⑴東京府
もう1種類見に行ったのですが、上でホームレスが寝ていたため残っているかどうか確認できませんでした。これこそ社会問題、って感じですね(?)
⑵渋谷町
⑶大久保町
歌舞伎町のど真ん中にあるため、撮りに行くのにめちゃめちゃ緊張した蓋です。
④しつこく都心の骨董蓋を見に行く(1/13)
3日連続でマンホール探索に使ってますね。さすがに頭がおかしいです。この日は東京駅・日本橋方面に行きました。以下列挙
⑴野村證券
⑶大崎町
⑷東京都
東京なのに名古屋市型...でおなじみの日比谷公園の蓋(左上)も見に行きました。
⑷街燈
なんかうまく撮れなかったのでそのうち行きたい。永代通り以外にもう一箇所存在するという話を最近聞いて気になっています。
⑤成人式 @としまえん(1/14)
友達がそれほどいないので(悲しい)、豊島園の中の蓋が見られるいい機会、ぐらいの気持ちで行ってきました。
蓋自体は予想通り普通の蓋でした。友達には意外と会えたのでよかったです。人生捨てたもんじゃないね
⑥館林〜太田〜大泉〜邑楽〜加須(1/18)
群馬〜埼玉を東武線で回った日です。なぜ一遍にこんなに回ろうと思ったのか。
まず、デザインマンホールです。
2行目右、邑楽町のマンホールの後ろに描かれているタワーは、邑楽町のシンボルタワー"未来MiRAi"です。"i"を小文字にするというネーミングセンスが平成、って感じですね。
デザインもの以外で印象的だったのは旧騎西町(現:加須市)。1975年まで使われていたもの(下左)と2010年合併まで使われていたもの(下右)、2種類の町章がマンホールに使われています。
⑦浦安〜市川〜船橋(1/31)
去年の5月から自動車教習所にダラダラと通っていたのですが、10ヶ月の教習期限ギリギリに卒業し、この日ついに普通免許を獲得しました。
AT限定なんですけどね!しかも、免許取ってからまだ1回も車乗ってないっていうね!
この日のデザインマンホールは以下。左上から順に、浦安・浦安・市川・市川・市川・船橋です。
市川市のマンホールは南行徳駅周辺で撮ったのですが、市川駅の方がキレイな蓋があるようです。そのうち行きたい。
この日見つけた一番いい蓋がこちら。
南行徳駅前にある、千葉県・工業用水の空気弁(AV)です。「工」の2画目が折れているのが最高です!「工務店」の看板などでたまに見る機会はあるのですが、マンホール蓋に書かれているのを見るのは初めてでした。
2記事ぐらいで半年振り返れるかな、と最初思っていたのですが、ここまで書いてすでに2000字。ちょっとした期末レポートレベルです。ここまでやって思ったのは、たぶん6月の分まで続かないということ。なかなか書くのダルいので... ただ、節目節目に過去のことを思い出す、というのも大事だなぁと思いました。2月以降もできるところまで振り返っていこうと思います。
1月に撮ったマンホール:501枚
東京都多摩市のマンホール 市章の傾きにケチをつける会
あけましておめでとうございます。
新年早々大学の期末試験が終わり、長い長い春休みを迎えました。なんていい大学なんだ!
ということで、早速多摩市を歩いてきました。
まずは普通の多摩市章から。
(市章・シンボルマークと市の花・木・鳥 | 多摩市役所より)
多摩市章は「多」の字を、ハトが飛び立つ形のようにデザイン化したものです。
中央の長い棒の角度はだいたい45度といったところでしょうか。
マンホールになるとこんな感じ。
上の正式な市章と全く同じかと言われると微妙ですが、大きな問題はないでしょう。
こういったタイプのマンホールは、枠の部分の金属と市章部分を別の型で作る場合もあるようです。この蓋では、市章の傾きがやや大きくなってしまっている感じがします。
ただ、「多」の字と読み取ることはできるのでまだセーフ。
今度は角度が小さいタイプ。聖蹟桜ヶ丘駅や多摩センター駅の周辺には、こういった歩道に溶け込むデザインのマンホールが多くありました。これもセーフの領域でしょう。
おかしい。なぜこの向きで作ってしまったのか...135度回転という謎のズレ。たしかにこの向きでもデザイン的にはありかもしれないけど... これじゃ「多」のデザイン化とは全く分かりません。
他にもあるんかい!
真逆。市章の意味分かってないでしょ...
国立市のマンホール 国立市章のバリエーションを楽しむ会
東京都国立市は、全国の市の中でも4番目に小さな市ですが、その割にはそこそこの種類のマンホールが存在します。
その多くに国立市章が入っているのですが、蓋によって微妙にそのデザインが異なっています。
これが正式な国立市章。(国立市の概要/国立市ホームページより抜粋)
この市章は市内の彫刻家、関保寿さんの作品で、国立町時代から用いられており、1967年の市制施行時に正式に市章に制定されたようです。込められた意味はというと、
国立市のマークは、梅の花です。五弁の花びらをあしらったこの市章は、いろいろな意味をもっています。二重の外側は、「国」のかまえを表し、内側は、「立」と文教の「文」を示し、図案全体で世界五大州の意味も含んでいます。
(国立市の概要/国立市ホームページより)
らしいです。梅は分かりましたが、さすがに世界五大州は言われないと分かりませんでした。
この国立市章、ちゃんと正確に描き方が決まっています。
作図方法
国立市章に限らず、シンボルマークの類は正確に作図方法が決まっていることが多いようです。
この市章がマンホールになるとどうなるのでしょうか?
許容範囲。正式なものより曲線がキツい気もしますが、まあ合格でしょう。
これも許容範囲。水道の蓋のには「水」の字を模したマークが入る場合があります。
入らない場合もあります。
悪くはない。カーブのゆるさ的にはさっきの蓋より再現度が高いです。でも花びら2枚の線の太さが違いすぎる!
ほぼ完璧だったのに非常に残念です。これはこれでアリではあるんですが...厳しめの採点です。
怪しい。最初の画像と見比べてください。さすがに曲線がきつすぎる気がします。100点中60点といった所でしょうか。
評価しづらい。ここまで見てきた通り、国立市章は花びら二重だったはずですが、この蓋には一重しかありません。
水道マークが入っている時点で周りのマークが市章である保証はないとはいえ(水道のマークと市章が違う市町村も結構あります)、これはどうなのか。
というかさっき水道マークが入ってて花びら二重の蓋もあったし。
もしかしたらメーカーのミス?
次の蓋がこの記事のオチです。
絶対に許さない。もう一度正式なマークを見返してください。これは同じマークって言っていいのか。一瞬天理市章みたいに見えてしまいました。
これらの蓋から、マンホールに描かれる市章は割とラフだということがわかります。
他の市町村でも、よく見てみると微妙におかしい柄のマンホールが見つかるかもしれませんね。
石神井川中流の流路跡を歩く その2-2 (高松・春日町方面)
続きです。
今回は地図の中央付近、川跡が分岐するところから。
川跡を道なりに進んでいくと、練馬区立春日小学校の裏門に到着し、これ以上先に進めなくなります(地図上の7)。川跡は、春日小学校の中を抜けていっていたようです。
現在の春日小学校と1947年当時のほぼ同じ位置を撮影した航空写真です(どちらもねりまっぷより作成)。水田の周りを水路が走っていることがわかります。おそらく、今の校舎の北側あたりを川が走っていたと考えられます。
ほぼ同じ場所を色別標高図にしてみました(地理院地図(自分で作る色別標高図)を利用)。崖沿いに校舎があることがわかります。南側の大きい建物が校舎、北側の小さい建物が体育館のようです。体育館は建設の際に多少崖を削っているものと思われます。
3つの要素を無理やり合わせてみました。非常に見にくいです。崖沿いに川が流れていたところに校舎を建てているということが辛うじてわかります(これも地理院地図より作成)。
春日小には、北校庭と南校庭という2つの校庭があるそうです。北校庭は崖の上、南校庭は崖の下にあるようで、校舎は北校庭から見ると2階建て、南校庭からみると3階建てになっているそうです(春日小学校HPより)。
南校庭と正門の間には「春日の流れ」という小川があり、子供達の学習に使われているそうですが、今回訪れている川と関係があるかどうかはよく分かりません。
春日小の建設用地は1978年に取得されたものですが、その翌年の発掘調査によって、尾崎遺跡が発見されます。
春日小学校の建設にあたり、昭和54年~55年に発掘調査が行われ、旧石器(約3万年前ごろ)から江戸時代までの遺跡が発見されました。この遺跡からは、底がとがった縄文時代の土器や、「仲」と書かれた平安時代の土器など、練馬の昔を知るための貴重な資料が得られています。中には火おこしをするのに使った「平安時代の火きり臼」など大変珍しいものもあります。「尾崎遺跡おさきいせき」は、遺跡の多くが埋め戻し保存され、昭和58年に東京都の史跡に指定されています。これらの資料は、学校内にある「春日小学校尾崎遺跡おさきいせき資料展示室」で見学できます。
(文章と画像:尾崎遺跡 (おさきいせき):練馬区公式ホームページより引用)
尾崎遺跡は、練馬区に旧石器時代から人が住んでいた証拠の1つとして大きな役割を果たしているようです。
先に進みます。
地図上8の地点。ここから川は道路上に戻ります。最初から一貫して道幅が広く、練馬区にありがちな水路敷はまだ登場しません。
9地点。終盤にさしかかって道幅が狭くなり、暗渠っぽさが今更になってでてきます。下水道台帳を見ると、残念ながらこの川跡を流れる下水道は途中何箇所かで分断されてしまっています。こういったみちも「暗渠」と呼んでしまってもいいのでしょうか?
豊島園グラウンドの前の道に出ます。現在では豊島園の敷地に遮られてここから先を辿ることはできません。
1936年の航空写真です。目を凝らして見てみると、なんとなく石神井川に注ぐ流路が分かるような... それっぽいルートを紫で描写してみましたが、全然違うような気もします(これも地理院地図より作成)。
6地点で分岐した水路が石神井川と再び合流する石川橋に来ました。
石川橋の少し手前の地点です。奥の波マークのペイントの奥は豊島園の敷地です。
石神井川も、この先は豊島園の敷地内を通っていきます。
石神井川中流の流路跡を歩く その2-1 (高松・春日町方面)
1970年住宅地図をもとに、練馬区中南部の川跡を巡っています。
これまでの記事はこちら ↓
今回は、石神井川の小橋から分岐して春日小学校の方に向かう支流(ここでは「春日小支流」とします)に向かいます。
地図上の赤い点をクリックすると番号が見られると思います。
練馬中央陸橋のすぐそばにある小橋(こはし)です(地図上の1)。奥に見えるのは環状八号線です。
昭和22年(1947年)当時の小橋周辺の航空写真です。(ねりまっぷにより作成) 小橋(左下)から北東方向に支流がのびているのがわかります。今回歩く支流の他にも多数の水路があったようです。
昭和38年(1963年当時)の航空写真です。中央付近の、練馬主要区道81号線を超えたあたりから開渠になっているのがわかります。この頃になると周辺に住居も増えてきます。
2地点。右方向に向かうのが川跡です。この辺はまっすぐなのであまり川跡という感じがありません。
3地点。ようやく右カーブです。「お」の文字がイカしてます。
4地点。崖を登ると高松八幡神社があります。
高松八幡神社は、1064年に源頼義によって建立されたといわれており、石段脇の石造大山不動明王像が練馬区登録有形文化財に指定されています。(左に見切れてるやつです)
高松八幡神社周辺の標高を図に表してみました(地理院地図(自分で作る色別標高図)を利用)。石神井川流域の北側の縁部分に高松八幡神社が建てられていることがわかります。典型的な神社の立地です。
上に登ってみました。やはり高低差が大きいです。
5地点。道路の幅員が狭くなっています。川跡は右斜め前の道です。
ちなみに、この付近の石神井川の対岸は、貫井川と石神井川が合流する地点になっています。
6地点。ここで川跡は前方と左方に分岐します。今回は左に向かいます。
左に曲がった地点。ここまでよりも多少道幅が狭くなり、曲線の半径も小さくなっている印象です。
今回はここまで。次回はこの先にある春日小学校付近について掘り下げようと思います。
貫井川の支流を歩く その1(向山)
先日貫井川本流を紹介したのですが、貫井川は目白通りの北、円光院付近で二又に分かれます。今回はその支流側を、石神井川との合流地点から遡ります。
↑ 貫井川本流はこちら。
今回はこの地図の青色の部分です。赤色のポイントをクリックすると、本文中で使っている番号がでてくると思います。
スタートは石神井川・石川橋付近(地図上の1番)。この付近は長らく水田だった地域なので、水路跡が著しく多いです。この貫井川の分流にも、時代によってはさらに支流が存在します。
地図上2の地点。まっすぐ先に行くのは向山ヶ戸の支流です。こちらは目白通りから流れてきており、ここで貫井川分流と合流します。
右側に曲がっていきます。趣のある家ですね。それにしても西日がきつい。
地図上3、かわいいパンダと鳥(奥のはカメ?)です。こういうタイプの整備がなされている暗渠は練馬区では珍しい方かもしれません。白線が2本引かれているのも気になります。
左奥に見切れているのは、東京電力豊島園線の送電鉄塔(No.10)です。西から石神井川沿いに来た豊島園線はここで南に90度進路を変え、すぐ先の向山公園付近で地中に潜ります。
これは酷い。探索は午前中から始めようと心に誓いました。暗渠はここで広めの車道にぶつかります。まっすぐ先には稲荷神社があり、暗渠はそれを避けるようにして二手に分かれています。つまりここが2ルートの合流地点です(おそらく前の道路より数メートル先で合流していたものと思われます)。
前方の細い道と左の車道がありますが、開渠当時のルートが残っているのは前方の細道なのでそちらに向かいます。
いかにも暗渠跡、って感じのジメジメ感。
左側の高台は稲荷神社と駐車場として使われています。右側も割と高低差があるようです。
地図上5付近。二手に分かれたルートは再び合流し、広めの車道になります。下流から遡っているのでずっとゆるい上り勾配です。
地図上6。広い通りと交差します。地図ではそのまま前方に進めそうに見えますが、実は前方が崖になっていました。おそらく暗渠化の際に手前側の道路がかさ上げされたのだと思われます。
反対側に回ってみました。川跡の部分だけ崖が途切れていて、なんとなくそこに川があった雰囲気を醸し出しています。
近づいてみました(7)。かつてはここに「貫東橋」という橋がかかっていたようです。
8地点。現在ではこの先は行き止まりになっていますが、1970年住宅地図ではこの先までが開渠として描かれています。おそらくこの先のどこかで右に曲がり、すぐ右側を流れている貫井川から分かれていたのだと思います。実際、1963年航空写真にはこの先で貫井側分流が本流と分かれている地点を確認することができます。前方すぐ先には目白通りが東西に走っています。
おまけ
最初に紹介した石川橋の近くの家で、長方形のマンホールの蓋が足場として使われているのを発見しました。このタイプの蓋を個人が持っている、というのが驚きです。