石神井川中流の流路跡を歩く その2-1 (高松・春日町方面)
1970年住宅地図をもとに、練馬区中南部の川跡を巡っています。
これまでの記事はこちら ↓
今回は、石神井川の小橋から分岐して春日小学校の方に向かう支流(ここでは「春日小支流」とします)に向かいます。
地図上の赤い点をクリックすると番号が見られると思います。
練馬中央陸橋のすぐそばにある小橋(こはし)です(地図上の1)。奥に見えるのは環状八号線です。
昭和22年(1947年)当時の小橋周辺の航空写真です。(ねりまっぷにより作成) 小橋(左下)から北東方向に支流がのびているのがわかります。今回歩く支流の他にも多数の水路があったようです。
昭和38年(1963年当時)の航空写真です。中央付近の、練馬主要区道81号線を超えたあたりから開渠になっているのがわかります。この頃になると周辺に住居も増えてきます。
2地点。右方向に向かうのが川跡です。この辺はまっすぐなのであまり川跡という感じがありません。
3地点。ようやく右カーブです。「お」の文字がイカしてます。
4地点。崖を登ると高松八幡神社があります。
高松八幡神社は、1064年に源頼義によって建立されたといわれており、石段脇の石造大山不動明王像が練馬区登録有形文化財に指定されています。(左に見切れてるやつです)
高松八幡神社周辺の標高を図に表してみました(地理院地図(自分で作る色別標高図)を利用)。石神井川流域の北側の縁部分に高松八幡神社が建てられていることがわかります。典型的な神社の立地です。
上に登ってみました。やはり高低差が大きいです。
5地点。道路の幅員が狭くなっています。川跡は右斜め前の道です。
ちなみに、この付近の石神井川の対岸は、貫井川と石神井川が合流する地点になっています。
6地点。ここで川跡は前方と左方に分岐します。今回は左に向かいます。
左に曲がった地点。ここまでよりも多少道幅が狭くなり、曲線の半径も小さくなっている印象です。
今回はここまで。次回はこの先にある春日小学校付近について掘り下げようと思います。
神奈川県横浜市のマンホール 区篇①
横浜で撮ってきたマンホールをちょっとづつ放出していきます。
第一弾はこれ ↓
今回は、横浜市営地下鉄で回った中で見つけた、横浜市の中の区に関するマンホールです。
横浜市営地下鉄には、ブルーラインとグリーンラインの2線があります。ブルーラインは、横浜市泉区、戸塚区、港南区、南区、中区、西区、神奈川区、港北区、都筑区、青葉区を通っている他、湘南台駅は藤沢市にあります。グリーンラインは、緑区、都筑区、港北区を通ります。
今回は、戸塚区、中区、都筑区の蓋の他、三ツ沢上町〜片倉町の間ですぐそばを通る保土ヶ谷区の蓋を撮ってきました。
港南中央駅の周辺に港南区の蓋もあったようですが今回は行くのを忘れていました。無念
まずは中区の蓋です。
赤レンガ倉庫から桜木町方面に向かう歩道上にありました。
2017年に中区が区制90周年を迎えたことを祝う蓋で、上に描かれているキャラクターは中区のマスコットキャラクター、「スウィンギー」です。2007年、中区が区制80周年を迎えた際に選定されたキャラクターだそうです(中区役所 スウィンギーの部屋より)。
2017年設置のマンホール蓋で、人通りの多い歩道に設置されているということで、かなりよい状態でした。
続いて戸塚区。このマンホールは、戸塚駅周辺にふんだんにありました。屋根の下にあるものもあるので雨でも安心して撮影できます。
絵柄は東海道の戸塚宿です。戸塚宿を箱根駅伝のランナーが激走しています。戸塚宿の風景が江戸時代以前のものに見えるのに対し、ランナーは完全に現代の格好、というのが面白いです。
これは、戸塚駅から東海道沿いに数百m南下した地点にあったマンホールです。絵柄は上のものとほとんど変わりませんが、プレート式になっていて、提灯の「東海道」が「戸塚」になっています。
このマンホールのマンホールカードが第30回下水道職員健康駅伝大会やマンホールサミット2016で配布されたようです。
写真の蓋の横にもう一枚同じデザインの蓋があったのですが、どちらかが座標蓋だと思われます。
保土ヶ谷区の蓋です。横浜市で一般的な地紋の蓋(横浜のYとOをデザインしているらしい)の上にプレートが取り付けられています。保土ヶ谷区のマークの他に、区の花すみれと「カルガモ・カールズ」が描かれています。
保土ヶ谷区の区の鳥はカルガモです。「カルガモ・カールズ」は、1990年に、左の「区の花・すみれ」とともに制定された保土ヶ谷区のマスコットマークです。カルガモには名前をつけるのに、すみれにはつけない感じが不可解。
最後は都筑区。この蓋はセンター南駅から都筑区総合庁舎に向かう道に数枚ありました。かなり劣化が進んでいて、中央の「Welcome to Tsuzuki」も相当判別しづらくなっています。
本来は中央上部に、都筑区総合庁舎の方向を示す矢印が入っているのですが、汚れでほとんど見えません。誰か拭いてあげてください。
横浜市には、このほかにも緑区や旭区、瀬谷区などに独自のマンホール蓋が設置されているようです。特に旭区は種類が多いので行ってみたいですが、他に見るものがなさそう...
貫井川の支流を歩く その1(向山)
先日貫井川本流を紹介したのですが、貫井川は目白通りの北、円光院付近で二又に分かれます。今回はその支流側を、石神井川との合流地点から遡ります。
↑ 貫井川本流はこちら。
今回はこの地図の青色の部分です。赤色のポイントをクリックすると、本文中で使っている番号がでてくると思います。
スタートは石神井川・石川橋付近(地図上の1番)。この付近は長らく水田だった地域なので、水路跡が著しく多いです。この貫井川の分流にも、時代によってはさらに支流が存在します。
地図上2の地点。まっすぐ先に行くのは向山ヶ戸の支流です。こちらは目白通りから流れてきており、ここで貫井川分流と合流します。
右側に曲がっていきます。趣のある家ですね。それにしても西日がきつい。
地図上3、かわいいパンダと鳥(奥のはカメ?)です。こういうタイプの整備がなされている暗渠は練馬区では珍しい方かもしれません。白線が2本引かれているのも気になります。
左奥に見切れているのは、東京電力豊島園線の送電鉄塔(No.10)です。西から石神井川沿いに来た豊島園線はここで南に90度進路を変え、すぐ先の向山公園付近で地中に潜ります。
これは酷い。探索は午前中から始めようと心に誓いました。暗渠はここで広めの車道にぶつかります。まっすぐ先には稲荷神社があり、暗渠はそれを避けるようにして二手に分かれています。つまりここが2ルートの合流地点です(おそらく前の道路より数メートル先で合流していたものと思われます)。
前方の細い道と左の車道がありますが、開渠当時のルートが残っているのは前方の細道なのでそちらに向かいます。
いかにも暗渠跡、って感じのジメジメ感。
左側の高台は稲荷神社と駐車場として使われています。右側も割と高低差があるようです。
地図上5付近。二手に分かれたルートは再び合流し、広めの車道になります。下流から遡っているのでずっとゆるい上り勾配です。
地図上6。広い通りと交差します。地図ではそのまま前方に進めそうに見えますが、実は前方が崖になっていました。おそらく暗渠化の際に手前側の道路がかさ上げされたのだと思われます。
反対側に回ってみました。川跡の部分だけ崖が途切れていて、なんとなくそこに川があった雰囲気を醸し出しています。
近づいてみました(7)。かつてはここに「貫東橋」という橋がかかっていたようです。
8地点。現在ではこの先は行き止まりになっていますが、1970年住宅地図ではこの先までが開渠として描かれています。おそらくこの先のどこかで右に曲がり、すぐ右側を流れている貫井川から分かれていたのだと思います。実際、1963年航空写真にはこの先で貫井側分流が本流と分かれている地点を確認することができます。前方すぐ先には目白通りが東西に走っています。
おまけ
最初に紹介した石川橋の近くの家で、長方形のマンホールの蓋が足場として使われているのを発見しました。このタイプの蓋を個人が持っている、というのが驚きです。
石神井川中流の流路跡を歩く その1-2
続きです。
今回は12から。
環八を過ぎたあたりに、「ぬくいの森緑地」があります。崖に沿ってさまざまな木が植えられています。左手は神戸屋の工場です。
氾濫流路は徐々に北東に方向を変え、目白通りにさしかかります。(13)
その先には畑が広がっています。かつては水田だったようです。相変わらず右側は崖になっています。
14地点。ここから先は1970年住宅地図には描かれていません。左側の道も水路跡ですが、右に進みます。
15地点。ここで道は行き止まりになっています。「こもれび」によれば、氾濫流路は右の個人宅の敷地内を通っていたようです。
16地点。ここで左手からくる別の水路と合流します。一度そちらの方に行ってみることにします。
地図上の17。西日がきついです。いかにも川の跡、という感じがする道です。
ワープしました。地図上の18、道楽橋で氾濫流路は石神井川に再び合流します。
この周辺にもさまざまな暗渠が存在するので、追々紹介します。
石神井川中流の流路跡を歩く その1-1
石神井川中流のごく一部(平成みあい橋〜東中央橋)に絞って、1970年時点の流路をマップに描きました。
紺色 = 現在も流れている石神井川
水色 = 1970年発行の住宅地図に開渠として描かれている部分
深緑 = 1963年の航空写真では開渠になっているのに住宅地図に描かれていない部分
となっています。
今回歩いたのは谷原三之橋付近から大野橋に流れていた部分と、大野橋から道楽橋にかけて流れていた氾濫流路です。
谷原三之橋から少し下流に進んだ部分に石神井川と繋がる水路跡があり、その奥に水路敷が走っています(図中1)。
この付近の石神井川は古くは3本川となっており、周辺には水田が広がっていました。そのため、水田に水を供給していたと思われる水路がこの付近には数多く存在します。
図中2の地点。アパート1軒分だけ古めの側溝蓋が残っています。
3地点。石神井川のすぐそばを通過します。右手は崖になっています。
大野橋。水路敷はここで一旦途切れます。ここまでの水路敷は、石神井川が蛇行していた頃の本流の跡のようです。
ここからは、石神井川の南側を迂回する流路跡を進みます。
練馬区のまちづくり情報誌「こもれび」第43号では、この水路敷が石神井川の氾濫流路として紹介されています。
この流路の上流は1970年住宅地図には描かれていませんが、1963年航空写真には写っています。7年の間に暗渠化された可能性があります。
大野橋のすぐそば(5)から不自然な細道が分かれていきます。
練馬区名物の水路敷ペイントもあります。(6)
水路敷は四商通りとぶつかり、右折して少し平行した後、左折します。(7,8)
練馬区章が入った「雨水浸透」の小型マンホールがありました。
9地点。上り階段になっています。この辺りの流路は区画の変遷とともに多少か変更されているらしく、あまり当時の面影が残っていません。
10地点。ここから先は1970年住宅地図で開渠部分になっており、現在は「貫井四丁目緑道」として整備されています。
11地点。環状八号線の下をくぐり抜けます。
続きは次回。
神奈川県横浜市のマンホール 上水道篇
横浜に行ってきました。横浜市には非常にマンホールが多く存在し、その数は上水道で13万、下水道で53万だそうです(出典:変わったデザインもある!?市内のマンホールのフタに迫る! - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト)。まるで戦闘力ですね。
横浜市のマンホールをひたすら撮っていたら120種類を超えてしまったので、今回は上水道の蓋に絞って掲載します。
横浜市営地下鉄の一日乗車券で各地を巡ります。独自の蓋が多い旭区や、やや古めの蓋が残っているらしい本牧には地下鉄が通っていないので行けませんでした。残念!
まずはデザインものから。これはみなとみらいに保存されている帆船「日本丸」のデザインのマンホールです。地下鉄桜木町駅前のものですが、異常なほどにサビサビです。
上で紹介した記事によると、このタイプの蓋は古い基準で作られているため、次回更新時に撤去されてしまう予定だそうです。悲しい...
これは馬車道のデザインです。
上の記事によれば、これも次の更新でなくなってしまうようです。泣いちゃう...
横浜市の仕切弁には「仕切り弁」と「り」を入れた表記のものが多く存在します。中央のマークは、「水」の文字と横浜市章を組み合わせたデザインです。なかなかイカしてますね。
「り」が遠慮がちになりました。字も上のものよりも細くて多少スマートな印象です。字だけでなく、中央のマークも細くなっているのが面白いです。これも作り手の個性なんでしょうか?
ついに「り」が消えました。こんな感じで、はね・はらいをガン無視する字が大好きです(「市」はハネてるけど)。漢検でやったら×つけられると思います。
横浜のマンホールといえば、なんといってもこの受枠の格好良さ。なんとなく近未来を感じます。噴水マークもかわいいですね。
「バラフライ弁」と「ソフトシール弁」です。これも仕切弁の一種らしいですが、何者なのかよくわかりません。
戸塚区で見つけた消火栓蓋です。Y.W.W.(横浜市水道局(Yokohama Waterworks Bureau)を示す)の文字が入っています。
中区中心部で見かけることが多かったのはこっちの蓋。
量水器です。右のものは文字が中心に入っているのに対し、左のものは文字が少し右に寄っている気がします。
今回の探索の範囲内では右書きの蓋を発見できなかったのが非常に心残り。
まだまだたくさんありますが、ファイル利用量のことも考えてこの辺にしておきます。気が向いたら追加するかも。
東京都府中市のマンホール・ちょっとだけ国鉄下河原線
学校帰りに府中本町駅~府中駅~北府中駅を歩いてきました。日没まで2時間のタイムアタックでした。
府中市のデザイン蓋。市の花ウメが描かれています。地の色が青なのもいいですね
市内に比較的潤沢にあったのがこの蓋。これは市の鳥ひばりを描いたものです。「ふちゅうし」に対して「ごうりゅう」が窮屈になっている感じがキュートです。
これは市の木ケヤキをデザインしたもの。ケヤキを市の木にする自治体も凄く多いですね。茶色に塗装されている(?)ので芸術点高めです。
この地紋ははじめて見ました。比較的新しい蓋だと思われるので、今後他の自治体でも出会えるかもしれません。
大きめサイズの建設省蓋もありました。個人的に建設省の蓋は大好きです。なんでかよくわからないけど
細い道でこんな蓋を発見。府中市の紋章ではないので、もしかしたら貴重な蓋か?と思いましたがただの調布市章でした。府中町時代の蓋とかも残っていてほしいものです
建設省蓋の近くに国鉄の境界標がありました。たしかにここの地下には武蔵野線が走っていますが、もしかしたらこの横を通っていた国鉄下河原線のものだったりして?
下河原線は、1910年に多摩川の砂利運搬を目的とした「東京砂利鉄道」として国分寺~下河原間に開業しました。
もともとは貨物営業しか行っていませんでしたが、1933年に東京競馬場が開業すると、東京競馬場前駅(今の府中本町駅の近く)が開業され、旅客営業も行われるようになりました。
しかし武蔵野線が下河原線に沿って建設されることが決まり、下河原線は1973年の武蔵野線開業とともに廃止となります。現在では、さっきの境界標の近くが「下河原線広場公園」として整備されるなどしています。
、みたいなことが書いてありました。
ちょっとだけ線路が残っている箇所もあります。
レールを車止めに使っています。
記事の終わらせ方がよくわからない...
おしまい!